大人げない大人になりたくない
何か気づきたいがための
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【大人】か【大人げない】か。
それは大人なら気になるところ。
例えばどうだろう。
職場、友人同士、それは家族かもしれない。
自分にとって関わらなければならないコミュニティの中で、どうにも会話の弾まない人がいる。
空気感が違う、楽な自分で接することが難しい相手。
嫌い? 苦手?
「無理!」と簡単に表現できる人もいれば、
「ん~、別になんとなく」という、何故そうなったかすらわからない関係性の相手もいるだろう。
しかしきっとわかる人にはわかる。
相手も、同じ感情を自分に抱いている可能性が高いこと。
相手も大人なら同じく気付いているかもしれないが、若人ならどうだろう。
(大人・若人というのは、一概に年齢のことではない)
少なくとも自分は感じている。
→【気づいた人】
気付いた人が歩み寄るのが【大人】なのだろうか。
相手を観察し、笑顔を振りまき、会話を増やす。何を求めているか察する努力をする。
してあげる。
しかし。
それを労力と思う自分もいる。
相手も動かないのであれば、支障のない会話と適度な距離感を作っている現在が適当。
辛くも気まずくもない。
その関係を悪化させることなく、支障なく継続できる。対応できる。
その能力と冷静さを持っていたとしても。
それは【大人げない】対応になるのだろうか。
労力と思うことが【大人げない】のかもしれない。
疲れることをしたくない。
何故こちらだけ、というのが本音であろう。
なるほど。それなら【大人げない】かもしれない。
しかしここでいう【大人】な対応とは、どうすることであろう。
上記のように、現在よりも良好な関係になるように歩み寄ることであろうか。
…そうとも言えない気がしてならない。
【疲れることをしたくない】とは、自分の許容範囲を知っていること。
無茶をせず、過信せず。
大人の対応と思ってしたこと・言ったことが、相手には伝わらないどころか逆効果であることもある。
力量を過信し起こした行動の時ほど、手痛いしっぺ返しが来る。
面倒と目を背けるのではなく、気づいて、ここまで考えることができて達した結論なら、大人の考えでも大人げない考えでも、自分で納得のできる言い訳ができる。
結局。
自分を許すのは他人でなく、自分なのだと思う。
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ふぅ。
文章はいいですね。
ヒトリゴトより冷静になれる。
かっこつけた文章が、かっこよくなりたい自分にハマるからなんだと思います。
すみません。
またまたお目汚し。
流してください~~~。
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